天ぷらの歴史:南蛮渡来の揚げ物が江戸の屋台料理になるまで

和食の代表格として知られる天ぷら。そのルーツには、16世紀に来航したポルトガル人がもたらした料理文化がありました。名前の由来から江戸の屋台、専門店の料理への変化までをたどります。

和紙の上に盛られたエビと野菜の天ぷら
写真:avlxyz(CC BY-SA 2.0)/Flickr
目次
  1. 天ぷら以前の「揚げる」料理
  2. ポルトガル人がもたらした南蛮料理
  3. 江戸の屋台で庶民の味に
  4. 屋台から専門店、そして天丼へ
  5. 地域によって異なる「天ぷら」
  6. まとめ

サクッとした衣に包まれたエビや野菜。天ぷらは寿司と並んで「和食の代表」として紹介されることの多い料理です。ところが、その成り立ちをたどると、海外との出会いが大きく関わっていたことがわかります。

天ぷら以前の「揚げる」料理

油で揚げる調理法そのものは、天ぷらより前から日本にありました。奈良・平安時代には、中国から伝わった「唐菓子(からくだもの)」と呼ばれる、米や小麦の生地を油で揚げた菓子が、宮中や寺院の儀式で用いられました。

鎌倉・室町時代には、禅宗とともに広まった精進料理のなかで、野菜や豆腐を油で調理する技法も発達します。ただ、当時の油は非常に高価で、揚げ物は庶民が日常的に口にできるものではありませんでした。

ポルトガル人がもたらした南蛮料理

16世紀半ば、ポルトガル人が来航すると、長崎などを通じてヨーロッパの料理が伝わりました。これらは「南蛮料理」と呼ばれ、魚に衣をつけて油で揚げる料理もその一つだったと考えられています。

「てんぷら」という言葉の由来には、いくつかの説があります。

  • ポルトガル語で、肉を断って魚などを食べる斎日を指す「テンポラ(têmporas)」から来たという説
  • 「調味」「味つけ」を意味するポルトガル語「テンペロ(tempero)」に由来するという説
  • 漢字の「天麩羅」は当て字で、後から意味づけされたという説

どの説が正しいかは定まっていませんが、南蛮文化との関わりのなかで生まれた言葉とみる見方が一般的です。

徳川家康が鯛の揚げ物を食べた後に体調を崩したという逸話もよく知られていますが、それが現在の天ぷらと同じ料理だったのか、また死因と関係があったのかについては、はっきりしていません。

江戸の屋台で庶民の味に

天ぷらが庶民の食べ物になったのは、江戸時代のことです。菜種油などの生産が増え、油が以前より手に入りやすくなったことが背景にあったと考えられています。

江戸の町では、江戸前でとれた小魚や貝、エビなどに衣をつけて揚げ、串に刺して売る屋台が人気を集めました。油を使う料理は火事の危険が大きいため、屋内ではなく屋外の屋台で揚げるのが一般的だったといわれます。客は揚げたてを天つゆにくぐらせ、立ったまま食べました。寿司、そばと並び、天ぷらは江戸の代表的な屋台料理となります。

屋台から専門店、そして天丼へ

明治時代以降、天ぷらは座敷で揚げたてを味わう専門店の料理としても発展しました。ごま油で香ばしく揚げる江戸前の天ぷらや、目の前で職人が揚げるカウンター形式の店は、いまでは高級料理の一つに数えられます。

一方で、ご飯に天ぷらをのせてたれをかけた「天丼」や、そばやうどんに天ぷらをのせた「天ぷらそば」「天ぷらうどん」など、手軽な料理としても定着しました。屋台の料理が、高級料理と日常食の両方に広がっていったのです。

地域によって異なる「天ぷら」

西日本、とくに九州や関西の一部では、魚のすり身を揚げた「さつま揚げ」を「天ぷら」と呼ぶことがあります。同じ言葉でも地域によって指す料理が異なるのは、揚げ物の文化がそれぞれの土地で独自に広がったことの表れといえるでしょう。

まとめ

  • 油で揚げる料理は、唐菓子や精進料理として古くから存在した
  • 16世紀、ポルトガル人との交流のなかで衣揚げの料理が伝わったと考えられる
  • 名前の由来には「テンポラ」「テンペロ」など複数の説がある
  • 江戸時代、油の普及とともに屋台料理として庶民に広まった
  • 明治以降、専門店の料理と、天丼などの日常食の両方へ発展した

海の向こうから来た料理が、江戸の町で日本の味として根づいていく。天ぷらの歴史には、異文化を取り込みながら形を変えてきた日本の食文化の柔軟さがよく表れています。

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